大熊一夫氏「対等な立場での信頼関係こそが一番のクスリでしょう」
「ルポ・精神病棟」、「精神病院を捨てたイタリア捨てない日本」など、日本とイタリアの精神科医療に関して息の長い取材活動を続けていらっしゃるジャーナリストの大熊一夫氏とぴあクリニック前院長が、どんなに重い精神障害のある人でも地域生活するためにはどうすればいいのか、縦横無尽に語りました。
精神科医療関係者も家族も入院治療に幻想を抱いている
大熊 僕が新居さんに強く惹かれたのは、2005年のクレリィエール誌でした。聖隷三方原病院長を辞めて、地域に埋もれた重い統合失調症の人々のための訪問医療を始められたことを書かれました。10年間誰とも口をきいたことがない30代の男性の家を数十回訪問しても、なおコミュニケーションが取れなくて、それでも訪問し続ける決意が述べられていました。あの粘り強さ、感動的な文章でした。2009年のクレリィエール誌ではさらに、地域精神保健の拠点として「ぴあクリニック」をつくったことをお書きになった。訪問型支援に拍車がかかった印象でした。精神病院をなくすには、こういう志の高い人材が必要なのです。だから、以来、浜松に取材に行きたい、と恋焦がれていました。本日こうして押しかけてきて、やっと積年の思いが遂げられました。
新居 大歓迎です。うちのクリニックの周囲を見渡しても、精神病院がなくなった方がよいなんて誰一人として思ってはおりませんから、私も精神病院無用論の大熊さんに会いたかった(笑)。
大熊 昔から精神病院無用論者だったのではありません。1970年に精神病院にもぐり込んで「ルポ・精神病棟」を書いた時は病院改善論者でした。地獄の病棟をもっと居心地良くしよう、なんて考えました。1986年にイタリアのトリエステを見たら変わりました。あの鬱陶しい収容施設など使わなくても重い病人を支えることはできるのだ、とわかりましたから。
新居 日本では今でも、精神医療の関係者のほとんどは、入院治療こそが精神保健の根幹だと考えています。何を隠そう、私も10年前まではそう考えていました。
大熊 精神病院を使わないで支えるシステム、なんて、今でも日本人の多くは想像できないのでしょうね。精神病院をなくしたイタリアのことを書くと、「家族の苦労を知らない癖にトンデモナイことを書くな」と怒りの投書が寄せられます。でも無理ないですよ。四半世紀前までは僕だって、精神病院を無くせるとは思わなかったのですから。
新居 ふつう、当事者が状態悪化すればするほど家族は入院を考えるものです。特に、入院でひどい目にあったことのない当事者も家族も、あるいは、入院させたことのない家族も、入院治療に幻想を持っています。私たち訪問支援チームが「地域でやって行けますよ」といくら言っても、耳を貸してくれない。家族が「入院させる」という限り、私たちは何もできない。私たちが訪問を始めてやっと関係作りが出来始めたなと思った矢先に、急に入院が決まってしまうこともよくあります。入院させることによって、家族も、近隣も、ひょっとして行政も、ほっとするわけです。精神病院が地域のいたるところにあるから、こうなるのです。なければ、地域でみんなが助け合ってお守りするに違いないのにね。精神病院が存在しないへき地や過疎地では、苦労しながらも在宅で支えているところが現在もあります。