対談: 精神病院依存主義からの脱却

最も困難な人に寄り添うキリスト教理念との出会い ー 赤レンガ精神とキリスト教精神のコラボレーション ー

新居 東京では精神科医としての就労の道を閉ざされてしまいましたから、女房子供連れで“さすらいの精神科医”になるしかない、と思いました。最初の宿場の浜松で、幸運にも聖隷三方原病院に拾ってもらったのです。浜松に来て私は元気になりました。はるか昔1920年ごろ忌み嫌われていた結核の患者を無償で面倒見始めたキリスト者の生活共同体が聖隷の始まりと聞いていますが、私が勤め始めた頃その伝統の理念を身に担い続けてきた人々が僅かではありましたが残っていました。精神科病棟においてもどんな困りものの患者であろうと正面から向き合い親身に介護や看護する看護師吉田博子さんに出会えて、私は強い影響を受けました。吉田博子さんは現在77歳ですが、虹の家ボランティアやかんがるーボランティアに一緒に参加していただき、現在までぴあリニックを助けてもらっています。誰からも相手にされず見放された最底辺の困窮者のところに赴き寄り添い続けようというマリアテレサ的実践が私の心にも多少浸みこんで、後ほどの私のボランティア活動につながったように思います。

大熊 赤レンガ精神とキリスト教精神のコラボレーションですね(笑)。

新居 聖隷の精神科病棟の最初の5年間は、私にとっては天国でした。職員が患者に、とても親身になっていました。マックスエル・ジョーンズの治療共同体の理念が念頭にあったのかもしれませんが、病棟でいろんなグループ活動をやり、年中お祭り騒ぎで、患者・職員ともども楽しく過ごしました。昼夜絶叫したい患者は自由に絶叫していました。ホールで脱糞したり放尿したり、落書きしたり、抱き合ってキスしたり、患者が職員をたたいて職員の方がしくしく泣いていたり、症状も出放題、みんなやりたい放題でした。私も患者とよく怒鳴りあったり格闘したりしましたが、そういう患者とは不思議な信頼感が芽生えたものです。私がスタッフと心がけたのは、管理的な扱いを最低限にすることでした。患者も退院したがらないので困りましたが、退院してからも入院同期の同窓会を患者たちがやっているのを知って、いい居場所になっているな、とひそかに自負しました。自由な病棟にすればするほど、自殺する患者が続いて落ち込むことがありましたが、隔離拘禁性を強めることはしませんでした。もっとも、病院の管理層にはかなり心配をかけていたようです。

大熊 最近、La seconda ombra(「ふたつめの影」)というイタリア映画が神戸で封切られました。バザーリアがゴリツィア県立精神病院長になった1961年からクビになる1969年までを描いた実話ドラマです。精神病院の地獄絵から始まって病院の塀を皆でぶっ壊すところで終わります。今の聖隷のお話は、この映画とそっくりです。これが、70年代のトリエステの病院解体につながるのです。

病院長として患者中心の医療作りに奔走

新居 私の体験はトリエステのように発展しませんでした。10年後に、なぜか病院長をさせられて精神科病棟と直接の縁が切れてしまい、私は病院全体の管理と経営に専念することになります。病院長として患者中心の医療を徹底してみようと思い定めた背景には、東京での精神医療改革闘争がありますね。就任するなり患者の権利に関する宣言を玄関に掲げ、インフォームドコンセントの徹底、100%がん告知、セカンドオピニオンの推奨、カルテの開示、24時間救急システムの構築、救急Drヘリ事業、ガラス張り医療事故情報開示などなど、患者中心の医療のために新たな目標を掲げては病院を引っ張っていきました。私の青臭い方針にも、スタッフはよくついてきてくれました。苦労もしましたが痛快でもありました。退職数年前、日経メディカルの全国病院評価ランキング1位になったことがあります。

大熊 覚えていますよ。なんだか、解放特区おとぎ話という感じですね。

新居 しかし大規模になるほど患者中心の医療とは程遠い事になるのが解ってきました。ベッドが足りなくなると毎朝あらゆる病棟に電話して可能なかぎり患者を退院させろといい、空床が続くと病棟婦長に退院予定を先に延ばせないか、などと圧力をかけていました。

患者中心の精神科医療と病院の合理化・効率化との矛盾

大熊 ところで聖隷の精神科はどうなったのですか。

新居 精神科病棟は建て直しで他の一般科病棟と同じビルの中に入り、一転して一般科病棟のようにスマートになり、精神科救急を引き受ける急性期病棟と、身体合併症病棟に機能分化しました。入院期間は極めて短くなったのですが、次第に隔離拘束性は強まり、みんな話もせず大人しく寝ていました。看護師は専ら効率的に入院患者を管理し、看護室の入口には鍵がかけられ、患者たちは、合理的ではあるけれどそっけなく扱われるようになりました。個人情報保護法ができてから特に際立ったことですが、外部との接触がたたれて、家族しか面会できなくなりました。退院した患者が病棟に遊びに来ることもなくなりました。退院が縁の切れ目。病院は地域での生活支援や医療支援を一切やらなくなりました。それらは地域の診療所や福祉機能に委ねるといった、連携なき機能分担です。かっての猥雑な私の病棟は見る影もなくなってしまいました。

大熊 せっかくのキリスト教博愛精神が修道院的になったのですね。

新居 私は病院全体の管理運営に専念し、精神科病棟は部長ほか現場職員にまかせっきりにしていました。ところが次第に精神科病棟の評判が悪くなり100床ちょっとの病棟なのに常に空床が目立ち、患者・家族からの苦情が私に寄せられるようになりました。病棟は気づかぬうちに隔離拘束が強くなっておりました。リハビリ目的で任意入院した私の古い患者は、混乱したときに放尿したとか周りを散かしたとかの理由で3か月間個室に入れられっぱなし。退院日まで大部屋に移されませんでした。また別の私の患者は、入眠薬の使い方にこだわって看護室に苦情を言ったら、個室のベッドに拘束されてしまい、大声で尿意を訴えたらおむつをさせられ数日間放置されたままだった。あんなに屈辱的な扱いはなかったと私にあとで訴えました。こだわりの強い人ではあったのですが。

大熊 それは、病院という施設の宿命ですね。

新居 病棟看護の問題点を何度も指摘し改善を要求しましたが、何も悪いことはしていない、患者のために精いっぱいやっており限界に達していると医者も看護婦も言います。こんな労働過重を課している病院長こそ問題であるという口ぶりです。これをやらせている最高責任者が私で、確かに私は各科職員に最高度の能率化と合理化を求めていたわけですから、悩みました。聖隷から離れるべきだという気持ちが次第に大きくなっていきました。

大熊 せっかくのエネルギーが改革につながらないのでは、もったいないですね。